2026年、AIの主戦場が「画面の中」から「現実世界」へ移り始めました。 その中心にあるのがフィジカルAI(Physical AI)——ロボットや自動運転車のような身体を持ち、現実空間を見て、考えて、実際に動くAIです。
そして日本は、この分野に国家として1兆円規模の支援を投じようとしています。2026年6月30日、経済産業省とNEDOが国産基盤モデルの開発事業を正式に開始し、ソフトバンク・ソニー・NEC・ホンダなど44社が出資する新会社「Noetra(ノエトラ)」が採択されました。
この記事では、フィジカルAIとは何かという基本から、日本の国家プロジェクトの実像、そしてどこまでが確定していて、どこからが不確かなのかまでを、公式発表を確認しながら整理します。
3行でわかる要点
- フィジカルAIは、現実世界で環境を感知して物理的に動くAI。生成AIとは制御の仕組みが根本的に違う
- 経産省・NEDOが2026年6月30日に国産基盤モデル開発事業を開始。Noetra(44社出資)と産総研を採択
- 日本の勝ち筋は「現場データ」と「ロボットハードウェア」。ただし予算はステージゲート審査つきで、1兆円は確約ではない
フィジカルAIとは何か

ChatGPTのような生成AIは、インターネット上のテキストや画像を学習し、画面を通じて答えを返すシステムです。出力が間違っていても、再生成するか人が直せば済みます。
フィジカルAIはここが決定的に違います。カメラやセンサーで現実を感知し、モーターやアームを動かして物理的に作用するからです。物を落とせば割れますし、人に接触すれば事故になります。やり直しが効かない——この一点が、技術的な難易度をまったく別次元にしています。
| 生成AI | エージェントAI | フィジカルAI | |
|---|---|---|---|
| 活動領域 | デジタル空間 | ソフトウェア・システム | 物理空間 |
| 出力 | テキスト・画像・コード | ワークフロー実行・API呼び出し | モーター/アクチュエーター制御 |
| 制御ループ | オープンループ | オープン〜セミクローズド | クローズドループ |
| フィードバック | 画面内の変化 | システムログ | 重力・摩擦・接触力など物理法則 |
フィジカルAIの動作は「知覚 → 推論 → 計画 → 行動」の4段階を高速で繰り返す構造です。重要なのは、自分が動いた結果として変化した環境を、すぐ次の知覚として取り込む点。この閉じた輪(クローズドループ)があるからこそ、現実の揺らぎに対応できます。
なぜ今なのか:3つの技術が揃った
フィジカルAI自体は新しい発想ではありません。長年ボトルネックだったのは「現実で試行錯誤するコストとリスク」でした。それを崩したのが次の3つです。
1. VLAモデル(Vision-Language-Action) 従来のロボット制御は、視覚認識・経路計画・モーター制御を別々のプログラムでつなぐ方式で、環境が少し変わると全体が破綻しました。VLAは映像・言語指示・動作コマンドを1つのニューラルネットワークで処理します。Physical Intelligence社の「π0.5」は、学習に含まれていない初見の家庭環境でもタスク成功率94%を記録したと報告されています。
2. 世界基盤モデル(World Foundation Models) 物理法則そのものをAIに学習させる技術です。NVIDIAの「Cosmos」は、物を持ち上げたときの重さや滑りやすさ、衝突時の反発を内部で予測できます。
3. Sim2Real(シミュレーションから現実へ) 仮想空間で数千〜数万台のロボットを並列に動かし、数時間で何年分もの試行錯誤を行わせ、学習済みモデルを実機へ移す手法です。光量や摩擦係数をランダムに変える「ドメインランダム化」と組み合わせることで、シミュレーションと現実のギャップが大きく縮まりました。
要するに、「壊さずに、安く、大量に失敗できる」環境が整ったことが、フィジカルAIを実験室から現場へ押し出した最大の理由です。
日本の国家プロジェクトが動き出した

ここからが本題です。2026年6月30日、経済産業省はNEDOと連携し、「AIロボット・フィジカルAIを見据えたマルチモーダル基盤モデル開発事業」を開始したと発表しました(経済産業省)。
公募(2026年3月24日〜4月22日)の結果、採択されたのはNoetra株式会社と産業技術総合研究所(産総研)の2者。事業期間は2026年度〜2030年度の5年間です。
経産省は事業の狙いをこう説明しています。日本の裾野の広い産業が持つ現場データを活用してフィジカルAIを実現することが「我が国の勝ち筋の一つ」であり、そのためには現場データを守りながら使える国産の基盤モデルが必要である、と。
あわせて、エネルギー自給率の低い日本にとってAI利用の省電力化が他国以上に重要である点にも触れています。これは意外と見落とされがちですが、計算資源を大量に使うAI開発において日本固有の制約条件です。
Noetraとは何者か
Noetraは、日本の産業界が総力を結集した開発実行体です。公式発表と報道で確認できる内容を整理します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 設立 | 2026年1月(旧・日本AI基盤モデル開発) |
| 代表取締役社長 | 丹波 廣寅 氏(ソフトバンク常務執行役員) |
| 中核出資企業 | ソニーグループ・ソフトバンク・NEC・本田技研工業の4社 |
| 出資企業数 | 合計44社(製造・通信・金融・建設・物流・製薬など業種横断) |
| 計算基盤 | NVIDIA Rubin GPU 約27,500基。2027年4月整備開始・2028年6月稼働予定 |
| ロードマップ | 2026年度:推論基盤モデル → 2028年度:オムニモーダル基盤モデル → 2030年度:実世界ネイティブAI |
出資企業にはファナック・安川電機・川崎重工・三菱電機・日立製作所・富士通といったロボットと重電の主力に加え、日本製鉄やメガバンク3行まで名を連ねています。業種を超えてこれだけ集めた例は近年ほとんどありません。
開発戦略室には、Preferred Networks共同創業者の岡野原大輔氏が参画しています(ソフトバンク)。
もう一方の産総研は、より長期的な基礎研究を担当し、カーネギーメロン大学やヨシュア・ベンジオ氏が率いるMilaなど、日米欧14の研究機関と連携する体制を組んでいます。
【重要】1兆円は「確約」ではありません
ここは正確に理解しておくべき点です。
報道によれば、初年度(2026年度)の委託費は約3,873億円、2030年度までの総事業規模は約1兆円とされています(ロボスタ)。
ただし注意点が2つあります。
第一に、経産省の発表文そのものには金額の記載がありません。 3,873億円という数字は報道ベースの情報です。
第二に、初回の委託契約は2028年3月31日までで、以降は年次のステージゲート審査によって継続や計画・予算の見直しが判断されます。 つまり「1兆円が5年間確実に投じられる」わけではなく、成果次第で縮小や打ち切りもあり得る構造です。
「国が1兆円出す」という見出しだけが独り歩きしがちですが、実態は成果を見ながら段階的に判断する契約です。ここを踏まえずに投資判断や事業計画を立てるのは危険です。
なぜ日本に勝ち筋があるのか

言語モデル(LLM)の競争では、膨大な英文ウェブデータと巨額投資を持つ米国勢に日本は完敗しました。それでもフィジカルAIでは勝負になると言われるのは、勝敗を決める要素が違うからです。
1. 現場データはネットに落ちていない 工場の組立手順、プラントの点検記録、熟練工の手の動き、品質管理のノウハウ——これらはスクレイピングで入手できません。日本の製造現場に物理的に存在するものであり、それ自体が参入障壁になります。経産省が「我が国の勝ち筋」と表現したのは、まさにこの点です。
2. ハードウェアを握っている AIがどれだけ賢い動作指令を出しても、それをミリ単位で再現するロボットアーム・減速機・触覚センサーがなければ動作は完結しません。産業用ロボットの世界シェアで日本企業が持つ地位は、この「ラストワンマイル」を押さえています。
3. 導入する必然性がある 少子高齢化による人手不足は、日本にとって選択ではなく強制です。製造・物流・建設・介護のどれも、従来型の自動化では対応しきれない非定型作業が残っています。必要性が最も切実な国であることは、社会実装のスピードで有利に働きます。
市場規模の数字は、そのまま信じないでください
フィジカルAIの市場規模については多くの予測が出ていますが、調査会社によって数字が10倍以上ぶれます。
たとえば同じ2025年の市場規模でも、ある調査は約50億ドル、別の調査は約814億ドルと見積もっています。16倍の開きです。
これは調査の質というより、「何を市場に含めるか」の定義が違うためです。ソフトウェアプラットフォームだけを数えるのか、ロボット本体のハードウェアまで含めるのかで、答えは当然変わります。
共通しているのは年30%を超える高成長という方向性だけです。したがって、特定の金額を根拠に議論するのは避け、「急拡大が見込まれる分野である」という程度に受け取るのが妥当です。「2035年に○兆円市場」という見出しを見たら、まず定義と出典を確認してください。
残っている課題
安全性と法整備:AIが自律判断で動いて事故が起きたとき、責任は誰が負うのか。製造物責任法や労働安全衛生法の適用のあり方は、まだ国際的にも固まっていません。
データの権利関係:44社がそれぞれの現場データを持ち寄る構想ですが、各社のIP(知的財産)をどう整理し、相互運用可能な形式に統合するかは簡単ではありません。ここが詰まると、学習効率が上がりません。
資金と計算資源の格差:米国のスタートアップは単体で数千億円規模を調達し、中国は実機のヒューマノイドを大量に製造しています。日本の投資が分散せず、Noetraと産総研に集中し続けられるかが問われます。
もっと深く知りたい人へ:フィジカルAIの書籍
この記事では全体像を整理しましたが、技術の中身や産業への影響をさらに掘り下げたい方向けに、2026年に出た日本語書籍を3冊紹介します。目的によって選ぶべき1冊が違います。
まず全体像をつかみたいなら — 経営・戦略の視点から、フィジカルAIが2030年の産業構造をどう変えるかを論じた1冊です。
短時間でざっと把握したいなら — 図解中心で、ロボット基盤モデルやヒューマノイド、産業構造の変化を手早く追える入門書です。
業務で導入を検討する立場なら — 日立製作所のAI CoEによる実務書で、技術と活用事例を扱っています。3冊の中では最も専門的です。

まとめ
フィジカルAIは、AIの活動範囲を画面の中から現実世界へ広げる転換点です。VLAモデル・世界基盤モデル・Sim2Realという3つの技術が揃ったことで、実験室の技術から現場に投入できる技術へと変わりました。
日本にとっては、単なる技術トレンドではなく人手不足を乗り越えるための現実的な手段です。そして、現場データとロボットハードウェアという2つの資産は、LLM競争で出遅れた日本が反撃できる数少ない足場でもあります。
一方で、1兆円という数字は年次審査つきの上限であって確約ではなく、市場規模の予測も定義次第で10倍以上ぶれます。 期待値は正しく持っておくべきです。
2028年のGPU基盤稼働と、2030年の商用実装。ここが最初の答え合わせのタイミングになります。
出典
- 「AIロボット・フィジカルAIを見据えたマルチモーダル基盤モデル開発事業」を開始します(経済産業省)
- AIが実世界で働く時代へ。経産省が示したフィジカルAI政策とNoetraの挑戦(ソフトバンク)
- フィジカルAIとは?(産業技術総合研究所)
- Noetraが始動、経産省が初年度約3873億円を支援(ロボスタ)
- 国産AI開発を担うNoetra、マルチモーダル基盤モデルの開発に着手(IT Leaders)
半導体やレアアースなど、AI時代を支える資源の話は南鳥島沖の中重レアアース確認でも取り上げています。AIモデル側の最新動向はClaude Opus 5の発表もあわせてどうぞ。
よくある質問
フィジカルAIと生成AIは何が違いますか?
生成AIはデジタル空間でテキストや画像を出力するオープンループ型のシステムです。フィジカルAIはロボットや自動運転車のような身体を持ち、センサーで現実を感知してモーターを動かすクローズドループ型です。自分の動作で変化した環境を即座に次の入力として取り込む点、そして物を落とす・人に接触するといった取り返しのつかない結果を伴う点が決定的に異なります。
Noetra(ノエトラ)とはどんな会社ですか?
2026年1月に設立された、国産フィジカルAI基盤モデルを開発する新会社です。ソニーグループ・ソフトバンク・NEC・本田技研工業を中核に、合計44社が出資しています。代表取締役社長はソフトバンク常務執行役員の丹波廣寅氏。経産省とNEDOの事業に産総研とともに採択され、NVIDIA Rubin GPU約27,500基の計算基盤を構築する計画です。
国が1兆円を出すというのは本当ですか?
報道では初年度(2026年度)の委託費が約3,873億円、2030年度までの総事業規模が約1兆円とされています。ただし経産省の発表文自体に金額の記載はなく、また初回の委託契約は2028年3月31日までで、以降は年次のステージゲート審査で継続や予算が判断されます。1兆円が無条件に投じられるわけではありません。
日本はフィジカルAIで勝てるのですか?
勝てる可能性がある根拠は3つあります。工場や現場に蓄積された高品質なデータはネット上に存在せず参入障壁になること、産業用ロボットのハードウェアと精密制御技術を日本企業が握っていること、人手不足という導入の必然性が最も切実であることです。一方、米中との資金力・計算資源の格差、データ権利関係の整理、安全性の法整備といった課題は残っています。
フィジカルAIの市場規模はどのくらいですか?
調査会社によって大きく異なり、同じ2025年でも約50億ドルから約814億ドルまで16倍の開きがあります。これはハードウェアを含めるかなど定義の違いによるものです。共通しているのは年30%を超える高成長という方向性のみなので、特定の金額を前提に議論するのは避けたほうが安全です。
VLAモデルとは何ですか?
Vision-Language-Action(視覚・言語・行動)モデルの略で、映像・自然言語の指示・ロボットの動作コマンドを1つのニューラルネットワークで統合処理する基盤モデルです。従来は視覚認識・経路計画・モーター制御を別々のプログラムでつないでいたため環境変化に弱かったのに対し、VLAは未学習の環境でも柔軟に対応できる点が特徴です。
※本記事の情報は2026年7月27日時点で、経済産業省のプレスリリース、ソフトバンク公式発表、産総研の公開資料および各種報道で確認した内容にもとづきます。予算額やパラメーター数など一部の数値は報道ベースの情報を含み、公式発表で確認できていないものはその旨を本文中に明記しています。書籍の価格は変動する場合があるため、購入前に販売ページで最新情報をご確認ください。